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京都観光レポート

2015年5月28日

 時候ではもう夏となりましたが、朝晩は、まだ肌寒い日々が続きます。皆様いかがお過ごしでしょうか?

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 さて、待ちに待った、60有余年の歴史において初の試みである、同志社大学経済学部父母会『ご子息が学ぶ、知られざる「京都」を知ろう!~千年の都『京都を歩く』=宇治=』と銘打った特別散策企画が、去る5月17日(日)48名のご父母有志が参加し、楽しく盛大に催されました。当日、神のご加護か、雲一つない晴天。世界遺産である〈平等院〉と〈宇治上神社〉、そして宇治川を遊覧する船での貴族さながらの〈舟遊び・豪華懐石の宴〉、締めの源氏物語宇治十帖を現世に甦らせた「源氏物語ミュージアム」等々を巡るめく、将に「極楽」を満喫する旅情でした。
つたなき文章ですが、この旅情の一端を甦らさせて頂きます。

 平安時代の貴族達の別荘地として嵐山と共に評判だったという宇治。
福岡から参加した私にとっては、大勢の観光客が押し寄せる嵐山に比べて、宇治は幾分のんびりと落ち着いた風情が魅力的に感じました。さらに、今回は、同志社父母会ならではの知的要素も加え、京都の歴史文化の第一人者でマスコミや大学等でご活躍されている「㈱らく(洛=京都)たび」の若村 亮先生(社長)に、フルにご同行願い、奥深いわかりやすい解説をいただきました。

 10時に京阪宇治駅に集合し、涼しげに流れる宇治川に架かる宇治橋を渡りました。大化の改新の翌年(646年)に架けられた宇治橋は、幾多の合戦や洪水で倒壊を繰り返してきました。歴史的イメージや周辺の景観に合わせたデザインで上流の眺めは素晴らしく、特に上流側に張り出した「三の間」は、川の災いを平癒する祠があり豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところともいわれ、そこからの眺めは足が竦みますが、それはそれは絶景でした。

 この橋のたもとより平等院へと続く参道が広がります。室町や江戸時代から営み続ける茶問屋の老舗が軒を連ね、通りを歩けば新茶のいい香りが鼻先をかすめます。昔ながらの建築物や風景が残され「かおり風景100選」にも名を連ねる通りで、茶屋はもちろん、雑貨店や食事処なども集っています。レトロな昔町の趣きを感じながら、買い物をしたり食べ歩きをしたい(特に、中村藤吉や久右兵衛の抹茶パフェを食べたい)との誘惑を我慢して、ひたすら世界遺産「平等院」へ歩を進めました。

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「わが庵は 都のたつみ(巽)しかぞすむ よを宇治山と ひとはいうなり」喜撰法師
都から巽(東南)の方向に位置し、世俗から離れて宗教的な空間に身を置く事ができる場所でもあり、この地に墓を建て、極楽往生できる事が、王朝時代の政治を牽引していた藤原氏にとっての憧れだったと云います。宇治の中心的存在とも言える平等院鳳凰堂は、まさに藤原道長の「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」との歌の如く「極楽浄土の地」の象徴です。道長の死後、子息で時の最高権力者、関白太政大臣藤原頼道は1053年末法開始にあたり阿弥陀堂を建造しました。これが現在広く知られている平等院鳳凰堂です。そのルーツは、9世紀中ごろから始まり、後陽成天皇の離宮となり藤原道長が引き継ぎました。源氏と平氏の橋合戦や、源義経と源義仲による源氏の内紛や、1221年に後鳥羽上皇と北条義時らの間に起こった承久の乱などがあっても、幸い鳳凰堂は大きな被害を免れました。1336年に足利尊氏が鎌倉幕府を打倒しようと反乱し、宇治が戦火に見舞われたときも、平等院の多くの建物が消失してしまうものの鳳凰堂は無事に残りました。唯一無二の阿弥陀様に守られ続けた功徳ある建物だからでしょう。

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 鳳凰堂の景観は前面にある阿宇池側から見ると美しい左右対称の姿が見られます。阿弥陀様の御顔も垣間見え感動この上ありません。池に映ったシルエットに酔いしれます。中堂の屋根には一対の鳳凰が飾られていてそれが鳳凰堂と呼ばれる由来です。中堂とその左右にある翼廊、中央から背面に延びる尾廊からなり俯瞰で見ると鳳凰が羽ばたいている姿に見えます。鳳凰堂の隣にある平等院ミュージアム鳳翔館の中に、一万円札の裏に印刷された初代鳳凰像の実物が展示され、それを一見し、素晴らしさに身震いしてしまいました。これこそが地上に降りた「極楽」の具現化に違いありません。「極楽」とは「極めれば楽に(倖せに)なる事」と云われていますが、これ以上の極めつくした建造物、宝飾物はありえず、藤原家の繁栄の象徴です。(因みに、道長は日本最初の糖尿病患者であることを吉村先生より伺いました。やはり、贅の限りを尽くしたのでしょう・・・?)

 

そして、昼食。宇治川を遊覧する船での舟遊び・豪華懐石の宴に参加メンバーは酔いしれました。右の写真は貴族さながらの私めの極楽の写メです(貴族の風格を感じませんか?(笑))。

 その後、私たちは、千年の時を越えて滔々と流れる宇治川を散策し、曹洞宗の開祖道元禅師が初めて開いた曹洞宗のお寺「興聖寺」を参詣しました。道元禅師の一生そのものが、その伽羅に現わされているような荘厳さに満ちており、修行僧から禅修行を行っているシーンを交えての有難いお話も承る事ができました。宇治川の方から山門に続く参道は道の両側に粛々と水が流れ、琴の音色に似ている事より「琴坂」と云われ、目にも鮮やかな新緑のトンネルでした。4月には山吹、11月には紅葉の名所と成るとの事。是非その季節に再訪してみたいと思いました。

 そして、再び宇治川の美しい景観を眺めつつ、世界遺産の「宇治上神社」に詣でました。御祭神は仁徳天皇(兄)、応神天皇(父)、菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)(弟)です。本殿の覆屋の中に、さらに内殿が3社あり格子障壁を通して中の3社(3人の祭神をお祀り)を拝観することができます。神社建築では日本最古となっているわけですが、三社の周りを覆屋で覆っているから綺麗な形で社が残っているとのこと。拝殿は鎌倉時代前期に伐採された桧が使用されていて、本殿は平安時代後期に伐採された木材が使われているそうです。「宇治」の地名に繋がる弟の菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)は、天皇家の兄弟の争いを避けるため、この宇治の地で自ら命を絶ったと伝承されています。世界遺産に登録された由縁と感じ入りました。

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 そして最後に、宇治市「源氏物語ミュージアム」を訪問しました。源氏物語は紫式部が書いた世界最古の長編小説とも称されています。三部構成の物語の三部は宇治が主な舞台となっています。物語の誕生からすでに1000年以上も経過しているにもかかわらず、現代人をも魅了する物語です。紫式部は、源氏物語の終焉の地として宇治の地を選びました。
宇治川を挟んで、「興聖寺」「宇治上神社」等が建つ東岸を此岸(現世)、平等院のある西岸を彼岸(死後の世界)として、その立地を効果的に活かしています。
無常を知り、「憂し」というイメージが「宇治」という地名と結びつき、この風情を生み出したのかもしれません。紫式部が書いた「源氏物語」五十四帖の中で、最後の十帖の舞台となった宇治。平等院でも明白なとおり、宇治は当時から貴族の別業の地として愛されてきました。訪問した宇治市「源氏物語ミュージアム」は、復元模型や映像を通じ源氏物語と平安時代の文化に親しめ、源氏物語の華やかな世界をゆっくり堪能する事ができました。帰途、宇治川右岸の朝霧橋のたもとに、源氏物語「宇治十帖」の古跡全体を象徴するモニュメント~ヒロイン浮舟(うきふね)と匂宮(におうのみや)が小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景のモチーフがありました。そして、この特別散策の最後に「紫式部」が宇治橋西詰夢の浮橋広場に石像として私たちを待っていてくれました(ありがと)。

 末筆と成りますが、今回の源氏物語絵巻さながらの素晴らしい「父母会散策会」を、皆様のご賛同があれば、是非とも同志社大学経済学部父母会の伝統として頂ければと思いました。今後の皆々様の益々の参加、参画、何卒、宜しくお願い致します。
同志社大学経済学部に子供たちが学んでいるとの「この縁(えにし)」を大切に、ここに繋がり合っている事を共に慶びあいたいと思います。

人生一度きり! Enjoy&Exciting!! 貴方らしく 私らしく 新しく!!!

同志社大学経済学部父母会 副会長 古世 政一

~ご参加いただいたご父母からのメッセージ~
「今回の宇治への旅は、地方在住の者にとりまして、京都を知る絶好の良き機会となりました。
 父母会役員の方々とのご縁もあり、教えて頂くことが多く、大変、有意義な時を過ごせましたことに心より、感謝申し上げ
 ます。」

経済学部1年生 保護者 飯尾 玲子

 

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